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第四集WEB公開、始まりました!

 湯上がりの匂いがした。
「東町の方までお願いします」
 市役所前を通るのでいいですか、と道順を確認して発車する。お客さんがとっぷり暮れた窓の外に視線を向け、出てきたばかりの温泉施設の方を名残惜しそうに振り返るので、
「ここ、いいところですよね。ぼくも娘のとこのチビたち連れて、家族でたまに入るんですよ。亡くなった妻ともよく来てたなあ」
 と声をかけると、お客さんはバックミラー越しに、はっとしたような顔でこちらを見て、「わたしも昔、よく家族で」と頷いた。
「今は東京に住んでるんですけど、こっちに帰って来たら時々母と二人で来てました。でも、去年母が他界しまして」
「ああ・・・、そりゃあご愁傷さまでした。お客さんのお母さんっていったら、まだお若かったでしょう」
「家族の覚悟ができる前に逝ってしまって。まだ父がこっちに住んでいるので、わたしと弟が定期的に様子を見に来てはいるんですけど、母がいなくなってからは、温泉からも足が遠のいてしまってたんです。今日は父と弟が用事で出かけていて、一人でぼんやりしていたら、ふと、あー広いお風呂に浸かりたいなってたまらなくなって」
 自分で運転ができたらいいんですけどすっかりペーパードライバーで、と言い訳のように続けるので、笑って、
「こちらとしてはタクシーをご利用いただけてありがたいですけどねえ。それに、湯上りはビールの一杯も飲みたくなるでしょうし」
 と言うと、お客さんも「そうですね、つい飲みたくなっちゃう」と笑う。
「だけどわたし、あそこではサイダーって決めてるんです。ビンに入ったサイダー」
「ああ、ぼくが子どもの頃からあるやつだ。ここらへんの人はみんな飲んだことがあるでしょう」
「小さい頃は弟と半分こだったんです。わたしはようやく炭酸が飲めるようになったばかりでした。喉がしゅわっとするじゃないですか。もっと小さい頃はあの感触が苦手で。二歳下の弟はまだ、ひとくち、ふたくちくらいしか炭酸が飲めなかったのに、やっぱりサイダーを飲みたがるんですよね。他のジュースにすればいいのに」
 お客さんが暗い窓の外に視線を向けたまま、懐かしそうな声で話す。
「ビンがかっこいいなって、憧れてたんです。両親は湯上りにビンの牛乳を飲んでいました。ぷはーっと飲み干して、空きビンを自動販売機の横にある黄色の回収かごに入れていく。わたしも、それがやりたかったんですよね」
「蜂の巣みたいになってる回収かごでしょう。あそこにぎっしりビンを詰めていくの、孫のチビたちもなぜかやりたがるんですよ。・・・あ、この道をまっすぐで大丈夫ですよね?」
「はい。ガソリンスタンドがある交差点を右折したところで降ろしてください。・・・いつだったかなあ。わたしも弟も小学生になってからだったと思うんですけど、ある日母が、今日から一人で一本飲んでいいよって、サイダーを買ってくれたんです。わたしに一本、弟にも一本。すっごく、特別な気持ちがしました。それまで喧嘩ばかりしていた弟に、サイダーはゆっくり飲むんだよ、じゃないと喉がぎゅってなるからね、なんて声をかけたりして。なんでですかね。ビンのサイダーを一人で一本飲めるわたしは、なんでもできるし無敵だって、思ったんです」
 信号が変わり、交差点を右折してタクシーを停めた。
「大人になってからも、湯上りに母は牛乳だったけどわたしはサイダーでした。飲む度に、心の中でつぶやいてたんです。大丈夫、無敵だって」
 今日、あの温泉に一人で入るのは初めてだったけど、母がいないなって思ってやっぱりさみしかったけど、サイダーを飲んだから、大丈夫そう。ゆっくり寝られそうです。
 そんなふうに話を終えたお客さんが車を降り、すぐ前の一軒家の中に入って行ったのを見届けてから、車を発進させた。
 対向車のライトが窓にぴかりと光った。無性に、ビンに入ったあのサイダーが飲みたいと思った。